秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条行幸のために上洛するが、将軍家光に対して大御所秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣に昇格した。
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寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。旗本を中心とする直轄軍の再編に着手し、同年5月には外様系大名を招集し、肥後熊本藩主加藤忠広の改易を命じている。老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。諸士法度の制定。寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。対外的には長崎貿易の利益独占目的から、貿易統制ならびにキリシタン弾圧を強化し、寛永14年(1637年)の島原の乱を経て寛永18年(1641年)までに鎖国体制を完成させた。これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(のちの将軍家綱)が生まれる。
寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉は起こるが、幕府の支配体制が揺らぐことはなく、正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した。[1]慶安3年(1650年)には病気から諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去する。享年48。家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次らが殉死している。
遺骸は遺言により東叡寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。
元和6年(1620年)1月5日、正三位に叙す。9月7日、従二位に昇叙し、権大納言に任官。元服し、家光と名乗る。
元和9年(1623年)3月5日、右近衛大将・右馬寮御監兼任。7月27日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
寛永3年(1626年)8月19日、従一位に昇叙し、左大臣に転任。左近衛大将を兼任。
寛永11年(1634年)7月11日、太政大臣転任を固辞。
慶安4年(1651年)4月20日、薨去。贈正一位太政大臣。